某雑誌で紹介されていたので、帰省の際に新幹線の中で読みました。感想は「中動態って結局何なのさ!」です。否定と肯定の中間ではない、とうことはわかります。言葉通りの意味で「する」と「される」の中間でもないということもわかります。では、結局何なのか。
それが何なのかを突き詰めるよりも、日常生活の中で、だれしも普通に体験する「したいわけではないが、したくないわけでもない」、あるいは「日本酒を飲みたいけど、みんながとりあえずビールと言うなら、自分も別に飲みたくなかったわけではないビールを飲む」みたいな、人間社会で生きてゆくうえでの「意思の折り合い」みたいな感覚でとらえたほうがいいのかなあ。
そういう中動態が歴史の中で「廃れてきた」のは、時代が進むにしたがって、「意思を持つ」ことが近代化の前提条件だったからなんでしょうか?。
まあ、5年後くらいに 再読していたいと思います。はい